私の一言

「使用者」と「利用者」

財団法人バリアフリーシステム開発財団 事務局長 羽柴 佳一

私が利用する広辞苑には、使用とは「つかいもちいること。つかうこと」、利用とは「利益になるように物を用いること。役に立つように用いること」と、それぞれ書かれている。となると、使用者は単に物を使い用いる人、利用者は物が利益や自身の生活に役立つ人となる。要は、利益を得る、あるいは役立つ場合が「利用」で、単純に使い用いるのみで利益を生む可能性や生活などに役立つことがない場合が「使用」となる。

この使用と利用、どちらを用いて表現するか、語彙を理解した上で、使い分ける人がどれほどいるだろうか。例えば、パソコンを「使用する」と表現する人がいる。これは間違い、パソコンは「利用する」が正解。しかし、「パソコンを使用する」と表現しても、他人から叱責や侮辱されない。

車いすに座る人を、「車いす利用者」と呼ぶ人がいれば、「車いす使用者」と表現する人もいる。この二つの表現、利用と使用の語彙を考えれば、車いすに座る人の身体状況を基に、明確に使い分ける必要がある。車いすを用いないと移動できない人、分かりやすく表現すると歩行が叶わない人が「使用者」で、松葉杖やステッキなどを使えば移動できる人が「利用者」となる。例えば、脊髄損傷者の中には松葉杖を使えば立つことができ、その状態で手すりが設置されたトイレで用を足せる人が居る。このような身体状況の人は、百メートルの移動を松葉杖で行うのは体力的に困難だから、車いすを利用する。その人の場合は「車いす利用者」(厳密には松葉杖で何メートル移動できるかという基準があるらしい)となる。

ところが、障害者へのサポート策を担うお役所は、車いすに座る人を総称して「車いす利用者」と表現する場合が多々ある。これはメディアも同じ。車いすという物が存在しなければ、這って移動するしか他に手段のない人を、車いすを使うことで利益を得る人と表現する。これは、大きな間違いだ。

いま、社会環境の様々な場面で、ハードのバリアフリー化が進められ、さらに、人の心というソフト面にも問題ありと、障害者や高齢者などへの優しさ、思いやりの心を持つ人で溢れた社会づくりを目指そうとする。そのバリアフリー策を、障害を持った人達は利用ではなく使用し、もし、使用できなければ、その大きなバリアに難渋する。例えば、駅舎の車いすマークで案内されたエレベーター。健常者は利用者だが、車いすに乗った人は、エレベーターが未設置なら、歩道と改札間の上下移動が一人で出来ないから、例え「車いす利用者」であっても、その場面では使用者。当然、スキーで脚を骨折してしまい一時的に車いすを利用する人も、使用者だ。視覚障害者は点字ブロックを、使用する。聴覚障害者は、駅舎の電光案内を情報確認手段として使用する。要は、身体に障害を持った人はバリアフリー策を使用するわけで、健常者の難渋解消を基本につくられた社会では、車いす利用者も、車いす使用者。だから、お役所やメディアの「車いす利用者」という表現は、障害者の難渋を理解できない、理解しようとしない「私」と自白しているようなものだ。

この、なぜ「使用者」となるか。なくてはならないモノを使うから使用者という原点を健常者が理解すれば、車いすマークで示された駐車スペースを利用する輩や、点字ブロックの上に自転車をとめる不心得者が皆無な社会になると言うのは正鵠を射ていないかもしれないが、少なくとも、障害者の「実際」をより多くの人が理解する社会となるだろう。

「障害のある人のための運転免許」は、障害を持った人達が、自分達の手でバリアを解消する事業と言え、同事業のHPに「車を運転することで、生活も価値観も大きく開けた」「外に出て仕事がしたい、人と交流したいから免許を取得した」と、車を使用することで得られる喜びの言葉が紹介される。

休日にマイカーで出かける人は、ガタゴト道や目的地に車を停める場所がないと、道路や駐車場の整備を望み、もし望みが叶わないと、必ず不平不満を口にする。障害を持った人達がどれほど難渋解決策を待ち望むか、その熱望のほどは誰でも想像できるはずだ。健常者は未整備に悪態を吐いても、バリアに阻まれ目的を達成できない事態に陥ることなど皆無。しかし、障害者では、達成できることが皆無だったが、運転免許では自分達の手で願いを叶える道を拓いた。

私は、「障害のある人のための運転免許」は、健常者の冷たい仕打ちに耐えかねた障害者が「自分達で実現する他に手立てがない」と奔走し実現した事業と、取り組みを聞くたび、少し恥ずかしくなる。

2007年2月27日掲載